最期の時

寄り添う。。

 昨日はだんなさまがバイトに行っている病院の最後のバイトの日でした。1年半、急行で1時間かかる所まで、2週間に1度通っていました。大体、夜の8時30分くらいに帰ってくるので、それに合わせて、今日の晩御飯はだんなさまの大好きな豆腐と卵(なんて安上がりな)料理でお疲れ様パーティをしようと準備をしてました。そんな時、だんなさまから自分の所の病院の患者さんが危篤なので病院によると連絡が入りました。ずっと癌と闘ってきた方だそうです。私は特別な理由がない限り、患者さんの最期の場に主治医は必ずいるべきだと思います。なぜなら、患者さんは命をかけて私たち医療者にたくさんの事を教えてくれたからです。

 今まで患者さんの最期の時に何度も立ち会いました。消えていく命を傍で感じながらいつも、精一杯この方のために看護ができたかなあと、少しでも安らかになるようお手伝いできたかなあと自問自答してしまいます。私の看護観の一つに悲しい寂しい最期をおくらせたくないというのがあります。

 ある患者さんの話です。脳梗塞で倒れ、脳のほとんどがダメになってしまい、ずっと意識不明の状態でした。つねっても痛いと感じることもありません。ずっとずっと眠り続けたままです。面会時間に毎日奥様が通われてました。いつもいつも体をさすりながら話しかけています。「何か反応はありますか?」反応はないと分かりながら奥様にそうやって話しかけました。首を横に振りながら、「ずっと仕事仕事の人だったんです。忙しくて、でも私たち家族を一生懸命養ってくれました。こうなってしまったけど、今が1番一緒にいれるんです。もしかしたら目をあけてくれるかもしれないと毎日祈りながらさすってます。この人のために何かできないかと考えるんです」患者さんと家族の残された時間、病院のベッドで最期の時を迎えなくてはいけない状況、この人たちのために自分は何をしなければいけないんだろう。そうやって考えて、いつも1時間体をさすっている奥様と一緒に体をお湯で一緒に拭くことにしました。大抵、体を拭くのは仕事上まだ時間の余裕のある午前中に済ませるのですが、私たちのリズムで動くのではなく、やっぱり患者さんや家族のリズムで動かなくてはなりません。なかなか時間を調節するのは難しかったのですが、私が勤務のときは午後の面会の時間に奥様と体を一緒に拭くことにしました。その行為をとても喜んでくださり、奥様も毎日患者さんの体を拭くことが楽しみになっていたようです。分かっていましたが患者さんが反応することは全くありませんでした。そして無情にも最期の時が訪れます。モニターの心拍数がどんどん0に近づいていきます。それを見ながら奥様は泣いていました。「何もしてあげられなくてごめんね」と。もう心臓がとまるなあと私も傍で最期の時を見ていました。その時です。医学的には絶対に起こるはずのない出来事でした。患者さんが目をしっかり開けて奥様を見ました。そして「ありがとう」と一言にっこり微笑みながら告げ、旅立っていったのです。誰もが驚きました。今の医学では証明できない事が起こったからです。でも確かに起こったことでした。そして奥様の涙は悲しい涙から温かい涙に変わりました。「お父さん、ありがとう。お父さんと一緒にいれて本当に幸せだった」

 人間の最後まで残る機能は耳だといいます。私たちは目で見えるものしか信じない傾向がありますが、どんな科学的根拠よりも、やはり生命の力というものは無限の可能性を持っているのだと教えて頂いた出来事でした。

 私も自分の最期の時を考えることがあります。できれば病院のベッドではなく住み慣れた我が家で迎えたいのが理想です。今は女性の方が長生きだし、だんなさまは私より6歳年上なので、だんなさまが先に逝く可能性が高いですが、寂しがりの私はできればだんなさまに見守られて逝くのが理想です。まだまだ先の話ですが、あの夫婦のように、

 「ありがとう、あなたと生きてこれて本当に楽しかった。あなたのことが、本当に
  
  大好きだったのよ」

こう伝えられたら幸せだなあと思います。